ドナルド・トランプを知るためには、ヒューイ・ロングを知らなければならない。 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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ドナルド・トランプを知るためには、ヒューイ・ロングを知らなければならない。

アメリカ大統領選挙を1930年代のポピュリズムから占う

ロングが夢見た、「ポピュリズム」の成功シナリオ

 1932年6月、大統領選候補を決めるためにシカゴで開かれた民主党全国大会で、民主党全米委員ルイジアナ代表として参加していたロングは、後に四選を果たし史上最長の任期を務めることになるフランクリン・ルーズベルトを富の再配分政策の仲間とみなし、指名獲得を強力に援護した。

 大統領選挙でも各地で派手な応援を行い、選挙での強さを見せつけたロングは、自らの政策や法案の実現と連邦における人事権の強化をルーズベルトに要求する。だが、傍若無人な態度を崩さないロングに、ルーズベルトとその側近たちは危険を感じ、ロングの要求を拒否した。これがきっかけとなり、ロングとルーズベルトの対決は激しさを増していくこととなる。

 ルーズベルトは、連邦の人事権によって露骨に反ロング派をルイジアナの連邦要職に就け、ロングの脱税疑惑を調査させることで、ロングの実権と求心力を削いでいった。そして、全米で十億ドル以上の公共投資を行った「公共事業局」による公共投資を、ルイジアナにはわずかに150万ドルだけしか投じさせなかったのである。そのため、他の州では実現されたような公共事業が、ルイジアナだけ行われないというような状態に陥った。

 しかし、結果としてルイジアナの民衆は、何もしてくれないルーズベルトよりも既に実績のあるロングへの支持を強めるようになる。

 ロングはルイジアナの新聞へ課税強化を行い、いつでも営業差し止めできる法律を制定させて言論弾圧を行い、同時に反ロング派の司法長官や判事を追放してロング派で固めることで司法をも掌握した。それだけでなく、いつでも戒厳令を発令できる法を制定させる。

 これらの措置は、大企業の陰謀への対抗措置というロングの扇動により正当化され、民衆に受け容れられたのである。ロングは、ルイジアナにおいては、もはや「国王より強大」と評されるまでになっていた。

 ここまでロングがルイジアナでの独裁を強めたのは、後の大統領選挙に向けて全米への展開を行うにあたって後顧の憂いを断つためだった。

 ロングが考えていたとされているシナリオは、次のようなものである。1936年の民主党全国大会でルーズベルトに挑み、敗北するものの、自身の政策である「富の共有運動」を存分に宣伝する。その後、民主党を離脱して、ルーズベルト政権がウォール街に支配されていると糾弾する。ロングの糾弾によって左派の票が割れ、共和党が勝利すれば「ニューディール」の経済政策は後退し、不況が深刻となる。そんな中でロングが「富の共有運動」を盛んに展開すれば、ロング待望論の機運が高まる。そして、次の1940年の大統領選挙では堂々と民主党候補の座を射止め、ホワイトハウスを我が物とする。

 ロングが提唱した政策「富の共有運動」とは何か。それは、100万ドル以下の個人資産には1ドルも課税しない一方で、

 

100万ドルから200万ドルまでは1%

200万ドルから300万ドルまでは2%

300万ドルから400万ドルまでは4%

400万ドルから500万ドルまでは8%

500万ドルから600万ドルまでは16%

600万ドルから700万ドルまでは32%

700万ドルから800万ドルまでは64%

 

というように、100万ドルごとに倍増するような累進的課税をしていき、800万ドル以上の個人資産には100%の税率を課すという、極端にしてシンプルな税制を提唱するものであった。同時に、富裕層から徴収した税によってアメリカの全ての健全家庭に5千ドルの資産を保証するという、再配分政策も提唱する。

 「ニューディール」よりもさらに過激な政策を主張するロングの演説は、ラジオに乗せて全米に届けられ、熱狂的な支持を集めた。「富の共有運動」に賛同する協会は、全米で760万人以上の会員を集めたとされている。ロングは自らの政策実現とルーズベルトとの対決のために、連邦上院議会で長時間の議事妨害などを行い、数々の「ニューディール」法案を廃案に追い込んだり修正させたりしていた。

 このようなロングの態度と存在に業を煮やしたルーズベルトは、ロングを「全米で最も危険な男」と考え、ルイジアナへの軍事介入さえ本気で考えていたという。

 

 だが、ルーズベルトの杞憂は突然の終わりを迎える。ロングは1935年9月に、ルイジアナ州都バトンルージュの議事堂で一人の青年医師が発砲した凶弾に倒れ、二日後に死亡することとなったのである。

 もともと、ルイジアナ内部でも反ロング派による暗殺の機運が高まっていた。だが、州兵や民兵、暗黒街まで掌握していたロングによって、ことごとく察知され壊滅させられていた。ところが、事件直後にボディガードによって射殺された暗殺犯である青年医師は、そういったグループと直接的な繋がりがあるわけではなかった。それどころか、結婚して子供が生まれたばかりで、事件の三日前には新居のための家具を購入し、事件の半時間前には翌日に予定されていた手術の打ち合わせをしていたとされていて、暗殺という凶行に及ぶ気配は全く見られなかったという。

 事件直後には意識がはっきりしていたロングが手術後には昏睡状態のまま死亡したり、青年医師の発砲による銃創とは別の銃創が発見されたりと、事件には謎が多く、真相は未だ闇に葬られたままである。そのため、ルーズベルトの陰謀による暗殺説もまことしやかにささやかれたという。

 事件前には権勢を極めていたロング派の子分たちの多くは、事件後にはルーズベルト支持に回り、結局1936年の大統領選挙では選挙人の数で523対8という歴史的な圧勝でルーズベルトが再選されることとなった。だが、その後はロング派の子分たちによる数々の腐敗と醜聞が暴かれていくこととなり、やがて全ての権力を失うこととなる。

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大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


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